「小さな旅の生態系」の大きな可能性
それはある60代の社会人学生の一言から始まった。
「鯖街道72㎞を自転車で走りませんか」
同志社大学大学院の社会人学生である森洋さんは、定年退職を機に滋賀県・葛川の空き家を購入し、京都市内の自宅との二拠点生活を始めた。大学院に入ったのもその頃だ。大学院で築いた人間関係をフル活用して在学中にNPO法人葛川共創ネットワークを立ち上げ、地域での活動を本格化させた。
その葛川共創ネットワークが初めて企画したツアーイベントが、「鯖街道サイクリング」だ。話を聞いたとき、私は「いいですね!」と即座に返したものの、「自転車で72km」という現実的な距離にはまったくイメージが追いついていなかった。しかも日程だけ決まっていて詳細はまだこれから詰めるという。半信半疑のまま話を聞いたあの日から1年。チラシができ、ホームページが開き、ルートが決まり、準備が少しずつ現実の風景に変わっていき、ついにその日はやってきた。


どこか懐かしく、肩の力がすっと抜けていく時間
10月31日、私は京都から湖西線で小浜入りした。雨で1時間遅れの到着。駅まで森さんが迎えに来てくれていた。この日の夜は小浜で郷土料理の調理・試食をするというプレイベント。鯖のトマトカレー南蛮漬け、サバのぬた、小浜名物丁稚羊羹などをいただく。ここでガイドさん、ツアー仲間と合流し、2泊2日の旅が始まった。
もともとはノリで始まったこの短い旅は、予想外の余韻を残した。楽しい、美味しい、アガる、映える……といった記号的な言葉ではどうしても捉えきれない何か。どこか懐かしく、肩の力がすっと抜けていくような時間。いま思えば「ウェルビーイング」とは、こういう状態を指すのかもしれない。
多くの観光旅行は「没入体験」を売りにしている。没入とは、非日常に身を投じることで生まれる一種の高揚だが、この旅はそうではない。旅のあいだじゅう、「初めて来たはずなのに、里帰りしたような気持ち」がつねにあった。おそらくそれは、私たちが「消費者としての観光客」としてではなく、「森さんが連れてきた人」として受け入れられたことが大きい。森さんが移住先で丁寧に築いてきた関係性の一部へ、私たちは自然と編み込まれていったのだ。


若狭湾から京都まで1500年続く交流の道
まず、鯖街道について少し説明しておこう。古代から若狭湾の海産物や塩を京都に運ぶために発達した街道群を指して、鯖街道という。もっとも、傷みやすい鯖が運ばれるようになったのは加工技術が発達した江戸中期以降のことだ。単一の決まったルートがあるわけではなく、古代から現代にかけて1500年もの年月をかけて毛細血管のように地域に広がった道のネットワークで、文化、宗教、食物、武器などが行き交った。修験道者にとっては修行の道であり、戦国武将が通った戦略の道でもあった。街道沿いには宿場が生まれ、旅の平安を祈る寺社仏閣が建てられた。私たちが自転車で走ったのは、小浜から熊川、朽木、途中、大原へとつながる通称「若狭街道」で、鯖街道のなかでも物流量最大のメインルートとされる。一方、京都への最短ルートとして知られる「針畑越え」は古く険しいルートで、現在も鯖街道ウルトラマラソンのコースとなっている。
次々に登場する「森さんの知り合い」
翌朝、小浜の鯖街道ミュージアム前からサイクリングツアーに出発。この朝から看護師のTさんが合流して森さんが運転するサポートカーに同乗。写真を撮りながら大声で励ましてくれた。Tさんと森さんは山登りの会で出会ったそうだ。出発地点にも森さんの知り合いだという小浜市の職員の方が親子で見送りに来ていた。この調子でツアー全行程に「森さんの知り合い」が登場する。
ツアーガイドは神奈川県鎌倉市で古民家民泊も運営している小泉成紘さん。森さんとは2024年の日本ソーシャル・イノベーション学会で出会い、意気投合。翌月には自転車で鯖街道を辿って葛川を訪れ、森さんが代表を務めるNPOの賛助会員になった。今回のツアーは小泉さんが監督で、森さんがプロデューサーの役回りだ。


NPO法人葛川共創ネットワークの理念
「わたしたちは、葛川地域及び周辺地域の課題の解決を図るため、当該地域の個人・団体・行政等と繋がり、共創と互酬により、持続可能な地域づくりを通じて、生きることの豊かさを実現することを目的としています。この法人が拠点を置く葛川地域は、若狭街道(鯖街道)のほぼ中央にあり、また安曇川上流に位置することから、同法人は、福井県小浜市から京都府京都市まで鯖街道を縦軸とし、横軸に安曇川流域から琵琶湖周辺地域を主な活動拠点とし、経済効率だけではないコミュニティづくりを実践します」
森さんが二拠点生活を始めた当初は、悪目立ちをして胡散臭いよそもの扱いもされたが、NPO法人として旗を掲げたことで、地域との関係性が変わってきているという。その変化には森さんも少し驚いている。「いろいろ相談されたり、頼まれたりするようになったんです」。休耕田の寄付を申し出る人も出てきた。葛川地域は人口減少が著しく2024年の人口は238人。しかし近年人口が微増し、昨年から限界集落からは脱した。森さんはその要因のひとつを、「一歩踏み込んだ自立支援をする『繋ぐ人材』」によって、新住民と旧住民、そして域外の関係人口とのゆるやかなネットワークが形成されつつあることだと考えている。これは、森さんの修士論文のテーマにもなった。
一人しか入れないお風呂の意外な効用
さて、小浜を出た一行は、瓜割名水公園での休憩を経て、熊川宿を抜け、朽木(くつき)へ。徳川幕府の譜代格の旗本、朽木氏が治めた領地で、陣屋跡などが残っている。ここで出迎えてくれたのは「ブラタモリ鯖街道編」で案内人もつとめた郷土史研究家の石田敏先生。森さんは1年半前にNHKのディレクター(ぶらタモリ担当ではない)と石田先生を訪ね、ちゃっかり弟子入りし、25年10月に開催された「近江の滝」シンポジウムではパネリストとして共演したりもしている。石田先生には奈良の東大寺に「お水送り(お水取りの水を送る)」をする神宮寺のこと、「さば読み」という言葉の由来、朽木の歴史などを教えていただいた。


朽木をあとにするとゆるやかな上り坂が続く。電動自転車でもまあまあしんどい。途中にわか雨にあったものの無事に葛川エリアに入り、築100年以上の古民家を改装したギャラリー兼カフェ「古民家Zutto」に立ち寄った。ここは葛川地域移住者の交流拠点にもなっており、オーナーはもちろん森さんの知り合いだ。森さんがNPO賛助会員に配るためにつくった「葛川の鯖缶」も販売していた。
ここからさらに少し南に下った集落にある茅葺き古民家の民宿「マチイハウス」がこの日の宿だ。一日一組の一棟貸しで、囲炉裏やピザ窯もある。夕食は近くでお弁当屋を営む「気まぐれ食堂」の出張調理。鯛鍋と鶏鍋と鍋尽くしの夕食でお腹いっぱいに。気まぐれ食堂のオーナーも移住者で、現在は注文でお弁当を一個からつくって配送するサービスが地域の欠かせないインフラ化しているそうだ。問題はお風呂。これだけ大きな家なのだが、なぜか浴槽は膝を追って1人入るのがせいいっぱいのミニサイズ。切れ目なく順番に一人ひとりお風呂に入る。でもこのシステムによってかえって食後の団らんが盛り上がったまま続いていくという意外なメリットがあった。一度に抜けるのが一人なので、話が途切れないし、風呂に行く人と風呂から戻ってくる人が入れ替わることで新たな刺激が生れてまた盛り上がる。ひとしきり飲みなおしたあと、一人また一人と自分で敷いた布団の中へ。雑魚寝なんていつぶりだろう…思い出す間もなく即落ち。なんだか本当に親戚の家にきているようだ。


平安時代にタイムスリップ!
2日目の朝は葛川随一の名勝、明王院とその隣の地主神社を森さんに案内してもらう。明王院は859年開山の修験道場。現在も7月には比叡山回峰行者の葛川参籠が行われる。隣接する地主神社は葛川を含む安曇川水系で信仰されているシコブチ明神を祀っている。森さんは移住して間のないころ、ここの境内の能舞台にスリランカの学生舞踊団と同志社の学生団体をよんで、舞踊とキャンドルナイトサービスと組み合わせたイベントを開催した。地元の人と実行委員会を編成して開催したものだが、場所が場所だけに眉を顰めるひともいたそうだ。そんなほろ苦い思い出話をききながら、色づきはじめた紅葉の美しい旧跡を堪能した。
その後、市民センターのある坊村で開催中のマルシェにおじゃました。京都産業大学の学生さんのポスター発表や、葛川共創ネットワークが出店しているお料理のブースなどの準備が進められていた。森さんの紹介で、明王院の信者総代、葛野常満さんにもご挨拶。平安時代から続いているお役目で59代だそうだ。そこからほど近い川沿いに森さんの自宅兼NPOの事務所がある。リビングの真ん中に薪ストーブを配置した山小屋の風情だ。ツキノワグマの与作(剥製)が出迎えてくれる。森さんがお隣の休耕田になった柿でつくった干し柿をいただく。


葛川を出ると、若狭街道のいちばんの難所が標高591mの花折峠を越え、桓武天皇の妃だった藤原旅子を祀った還来神社まで一気に下る。旅子が病に伏したときに最後の望みで戻った生家があった場所といわれ、ここにお参りすれば「無事に還って来る」という言い伝えがある。巨大なイチョウがこれでもかというほどの量の銀杏を降らせていた。ここでも森さんの知り合いの市浦剛さんが出迎えてくれた。ご自宅が神社のすぐお隣りで、本業は米作り。森さんの有機農業の先生でもある。街道沿いには森さんの田んぼもあった。


人生で初めてくす玉を割りました
そこから大原を経て京都市内へ。里の秋の風景の中を快適にとばし、嵐電の線路沿いをしばらく走って鴨川へ出る。出町橋のふもとの「鯖街道口」の石碑がゴールだ。記念撮影したあとに、出町柳商店街でくす玉セレモニー。くす玉を割ったのは人生で初めてだ。たぶん、これ以降割ることもないだろう。商店街のすし屋のご主人が迎えてくれて、カメラマンに写真をとられ、よくわからないままにマイクを向けられた。商店街を行き交う人が、何かわからないがとりあえず撮っとけとばかり次々とスマホを構え出した。
あとから知ったのだが、 実はこのツアー、「鯖街道の日プロジェクト2025」の「鯖街道マルシェ」というスタンプラリー企画の一環となっており、鯖街道を走破した人たちがスタンプラリーの最終地点である出町柳商店街に凱旋して盛り上げるという主旨だった。森さんが今年3月に大原で開かれた「鯖街道サミット」で「鯖街道の日プロジェクト」のことを知り、葛川の担当窓口役をかってでたらしい。プロジェクトのリーダーの一人、中東篤志さんも商店街に駆けつけてくれて一緒に記念写真を撮った。篤志さんは京都の有名な日本料理屋の三男で、京都の食界隈のキーパーソンの一人だ。旅の最後に登場した「森さんの知り合い」である。


観光旅行とも研修旅行とも違う旅のかたち
旅の終わりに、同行者の夫に何がいちばん印象に残ったかと尋ねると、「葛川のマルシェで会った人たちの楽しそうな顔」という答えがかえってきた。夫が「人口が200人くらいの場所で、どうやって生計を立てているんですか?」と森さんに聞くと、森さんは「みんな仕事を一つではなく、いくつか持っていて、うまくやりくりしているんですよ」と教えてくれた。食べ物は物々交換も多く、「十分暮らしていける」そうだ。移住した人たちの明るい表情から、この土地での暮らしそのものを心から気に入っていることが伝わってきた。葛川共創ネットワークが掲げる「経済効率だけでは測れないコミュニティづくり」とは、まさにこういう光景をいうのだろう。
没入型の旅は、帰宅すると一気に夢からさめて現実に戻るような感覚がつきものだ。あれがつらい。しかし今回の旅ではそういう感覚はなかった。温泉に入ったあと身体の芯がじんわり温まっているような状態が続いた。旅先に自分と結びついていると感じられる場所や人がひとつ増えるだけで、世界は少しだけ安心なものに変わる。この旅は「鯖街道72㎞を自転車で走りましょう」という一言だけで、どんな「リターン」があるかは一つも謳っていない。なので、参加するのも一つの「賭け」みたいなものだったが、それがいいのだ。でも「行ってみたらわかる(かもしれない)よさ」というものは、商業化するのはむずかしい。
では、どうすればこの形を持続可能にできるのか。ひとつの道は、多様な主体が手作りの旅を生み出し、そのノウハウを緩やかに共有していくという考え方だ。NPOが持つ機動力、中立性、そしてネットワークは、まさにこうした 「小さな旅の生態系」を育てるのに向いている。実際、森さんはすでに次の一手を打ち始めている。来年、葛川で「農泊カンファレンス」をホストする予定だ。小さな集落の取り組みがやわらかく広がり、地域に新しい関係と流れを生み出していく。その一歩がここから始まるのかもしれない。


写真提供:小泉成紘、寺本早苗、森洋、中嶋愛
著者
中嶋愛
同志社大学政策学部客員教授 専門分野 【 ソーシャルイノベーション 】
